
カッコイイレーシック
メニエール病は厄介な慢性疾患であるが、トータル・バランスの第二の法則を適用するUさんは今年五○歳になったばかりの専業主婦である。
二人のご子息は、二一年前までにいずれも大学を卒業して社会に出られており、子育てからやっと解放されたところである。
大学受験・仕送り・学費と、Uさん夫妻にとってこの一○年は休む間もない戦争のような日食であった。
夫妻で経営するレストランからの収入は決してゆとりのあるものではなかったが、ギャンブルや女性に縁のなかったご主人のおかげで、何とか二人の息子に思いどおりの進路を選ばせることができたとUさんは思っている。
ホッとして目標を失ったせいかもしれない。
れは、傍目には子育てに一段落し、やっと生活にゆとりができはじめた夏のある日にそれは、起こった。
前日、Uさんは、帰省中のご子息二人を自家用車に乗せて、空港まで送っていった。
暑さの厳しい日であった。
空港について話をしているとき、飛行機の離発着の音が耳についていたという。
「キーン」という金属性の反響音がしばらく続き、ことによりコントロール可能であることを、Uさんという一人のメニエール病患者を題材“として考えてみたい。
「あれっ?」と思ったが、別に気にもとめなかった。
疲労を感じ、その日はいつもより早めに床に就翌る未明、早めに目覚めたUさんが、手洗いに行こうと頭をもたげた瞬間、発作は起こった。
突然天井が反時計方向にグルグル回転しはじめたのである。
はじめは何が起こっているのかわからなかった。
次の瞬間、Uさんの頭に浮かんだのは地震という二文字であった。
あの阪神・淡路大震災から半年余りしかたっていないころで、しばらく続いたテレビの地弘震報道の記憶が生をしかったせいもあったかヅbしれない。
ぁ黄』「地震よ、おとうさん!」つぐ、ご主人の寝ている方向を振り返ったUさんは、懐然とした。
ご主人はなんと安らかに寝息をたてて眠っているではないか。
驚天動地という言葉がまさにふさわしい状況は、どうやら自分一人に起こっているらしいと気がつくまで、そう時間はかからなかった。
回転は勢いを増すばかりで、思わずその場に突っ伏した。
目を膜っても暗黒のスクリー第ンが跳ねるように回っているのが感じられた。
の「おとうさん!」と、もう一度叫ぼうとしたが、次第に猛烈な吐き気がこみあげてきて、言葉とともに大量の吐潟物を床に嘱吐した。
Uさんの尋常でない様子にようやく目を覚ましたご主人も、はじめは驚いてオロオロするばかりであったが、次第に落ち着きを取り戻し、「しっかりするんだ」と、一家の主らしい言葉をかけられるまでになった。
ご主人の頭に浮かんだのは"脳卒中″という言葉で、すぐに119番に通報、未明の救急病院へとたどり着いた。
上に白衣を羽織った若い救急担当医は、ポケットに突っ込んだ聴診器を無意味にもてあそびながら、意外な病名を口にした。
「メニエール病でしょう。
脳内に異常はありません。
念のため落ち着くまで入院してください。
朝になったら耳鼻咽喉科の担当医が精密検査をさせていただくことになると思います。
それまでは取りあえず点滴治療をしますのでベッドで休んでいてください」以上が、Uさんがメニエール病になった日のあらましである。
言うまでもなく、朝方当直医からカルテを引き継ぎ、その後の治療を行ったのは自分である。
それからUさんとのつきあいが始まった。
初回発作は一○日ほどでおさまり、退院された。
当初は左耳に若干の低音部の聴力低下が認められたが、退院するころにはほぼ正常範囲へと回復した。
その後も鎮量剤(めまい止め)を中心に内服薬を処方しつづけたが、二カ月に一回の割合で発作性にめまいが発症し、その都度めまいの特効薬である炭酸水素ナトリウムの静脈注射を行った。
ここでメニエール病の本態について少しふれておこう。
メニエール病は、聴力と平衡機能を司る内耳という器官を満たしているリンパ液が、何らかの理由で過剰に産生されるか、もしくは吸収が障害されて溜まりすぎ、神経、細胞を刺激して症状が起こるという説が有力である。
この状態を"内リンパ水腫″といい、原因はウイルス説、ホルモン説、アレルギー説など種を想定されているが、現在のところ定説はない。
このようにメニエール病は原因不明の難治疾患であるが、発症の誘発・増悪因子に「過労」や「ストレス」が関係していることは、確かなようである。
患者層を見ると、老人・子供より肉体的、社会的ストレスを受けやすい働き盛りの人に多く、また、病気を気に病む内向的性格の人に多い傾向にあるようである。
メニエール病の患者は、発作がおさまってもたいてい薬を決められたとおりにきちんと飲まれるし、治療にも協力的であるが、概して神経質すぎ、外来でも日常生活における細かい注意点まで聞かれることもしばしばである。
これらの患者は、「発作がいつ起こるかわからない」という不安を抱えており、そのことも神経質とならざるをえない一因であろうが、その神経質すぎる生活態度がストレスを増大させ、かえって病勢の進行を助けている場合も多く、このメニェール気質とも言える硬直した性格こそ、今までリミッターと呼んできた性格パターンに実によく合致するのである。
Uさんももともと凡帳面な性格であり、こちらが出した内服薬は一日も欠かさずきちんと飲まれていた。
それにもかかわらず、ある一定期間で繰り返し起こる発作が理解できず、途方に暮れた様子であった。
初回発作からちょうど一年経過したある日、小発作治療のために外来を訪れたUさんに対して、症状が落ち着くのを待って、トータル・バランスによる心の平安の取り戻し方について話すことにした。
トータル・バランスについて話を始めるときにいつも思うことであるが、この概念を理解していただくために最初にする質問は、どうしても一般的な医師の言葉とはかけ離れた抽象的なものにならざるをえない。
しかし最近では逆にこの意外な語りだしが、患者さん「おや?」と思わせ、話に引き込むよい効果があると思うようになってきた。
案の定普通の問診とはかけ離れた質問に、Uさんは一瞬怪誘な表情をして口ごもった。
「…と申しますと…」「いいですか。
小学校で習う円グラフを思い出してみてください」Uさんはますます怪しげな表情になった。
私はかまわず話を続けた。
「ここにあなたの健康な身体を示す円グラフがあるとします。
このうちのある部分は"メエール病という病気は、あなたの健康な身体のなかでどのくらいの割合を占めている、"メニエール病″という病に侵されているわけです。
白い円グラフのなかに病気の割合が黒い扇型で示されているとしましょう。
言っている意味がわかりますか?」「よくわかります」もともと専業主婦のなかには学識を埋もれさせている方が多い。
予想に反してずいぶんとラクな説明になりそうであった。
「目を膜ってこの円グラフをイメージしてみてください」「はい」「あなたの円グラフのなかで、病気の黒い扇型が占める割合はどのくらいですか?」「真っ黒です」Uさんは間髪を入れずに言った。
相当重症である。
私は苦笑しながら言った。
「そんなことはないでしょう。
メニエール病で死ぬことはありませんから。
もう一度よ−く考えてみてください」「う−ん…」しばらく考えてから、Uさんは言った。
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